#016 岡田サヨ子 (三州足助屋敷 傘屋)

*雨風、伝統をくぐり抜けてきた足助の傘職人*

 日本で和傘を手づくりしている工房は数えるほどになっている。この三洲足助屋敷にも傘作りの手仕事を今に伝える一人の職人がいる。傘職人として19年目となる岡田サヨ子さん。時計屋を営むご主人のもとへ嫁いだが、結婚生活10年で急死。その後お好み焼きや内職を経て、50歳を過ぎてから選んだのが傘職人であった。

 

-師との別れ-

 もともとこの足助屋敷の傘屋には山岡さんというおじいさんの傘職人がいた。岡田さんはこの山岡さんにみっちり教え込まれ、今の基礎を築いた。傘屋というのは江戸時代の浪人の内職の一つとして今もよく知られているが、この浪人の考え方に山岡さんと岡田さんはとてもおもしろさを感じたという。山岡さんは、浪人というのは飯が食えていなくても食えていると言うほどプライドの高い人たちであったと岡田さんに話したそうだ。下駄の方が早く作れ、早く金になるが自分より身分が低い者が足に履く、それに対して傘は殿様ですら上にさす物。この感覚に浪人たちはとても気持ちよさを覚え、プライドの高い彼らにあった内職として選ばれていたという。

 そんな傘屋としての立場や、やりがいも教えてくれていた山岡さんであったが、別れは突然訪れた。田で草刈りをしていた山岡さんが蜂に刺され亡くなってしまったのである。  

 

-毎晩毎晩、悪夢を見た-

 偶然にも山岡さんとの別れは傘作りの全工程、特に天井張りという最も難しい工程を伝授してもらったところであったという。しかし、1人残され職人としての経験がまだ浅かった岡田さんには相当なプレッシャーが襲い掛かっていた。「お客さんがね、買ってくれた傘を雨の日に開げると、傘の天井が抜け落ちてくる夢を毎晩見ました。」ここまで明るい表情で語ってくれていた岡田さんの表情が一変した。この不安と闘うため、岡田さんがしたことはただ一つ。全工程をしっかり確認しつつ、雨の日にひたすら自分で何本も試したという。これなら大丈夫と思えるまで何本も。 

 このときの探究心は、今でも傘屋を支える自信や原動力になっている。山岡さん亡き後、1人でやっていたところに娘さんが入門。こうして今では娘さんが傘骨、岡田さんが傘張りという分業体制が確立し、足助の傘作りを守っている。

 

―希少な存在―

 傘の骨となる、真っすぐで節が遠い真竹は、一日中歩いて2本ぐらいしか見つからないこともあるという。しかも娘さんが1人で山へ行き切ってくるというたくましさ。傘に張る和紙には同じ足助で作られる三河森下紙が使われている。楮(こうぞ)100%で混じりっけのない和紙は、とても丈夫なのだという。それゆえ、その価値を知る奈良の東大寺からも依頼がくるのだろう。

 さらに近年では国立演芸場からも依頼が来るそうだ。依頼が来た当時、曲芸師用の傘のノウハウが無い岡田さんに対して、「1日中担当者が私に張り付いて頼み込んできました。これがないと仕事ができないんです!ってね。」このように、あちこちから難しい注文がされるようになった。それと同時に、いかに傘職人が減っているのか思い知る瞬間でもある。

 

-緊張感の走る天井張り-

 今でも傘の天井を張る瞬間は、緊張ともやりがいともとれる感覚が走るという。「ここが少しでもズレてると雨が入ってくる。傘の意味をなさなくなるの。」傘骨から傘張りまで通して、ひと月に10本くらいしか完成品はできないという。それくらい手間のかかる作業の繰り返しで、傘骨・傘張りともに十数工程以上ある。

 傘の中心にはそれぞれ天井轆轤(ろくろ)と手元轆轤という重要な部品があり、それを骨に取り付ける。轆轤はちしゃの木という柔らくて粘りのあるものから作り出される。この部品を作る工房は岐阜に一軒しかないという。この轆轤から放射状に広がる傘の骨は通常のもので48本。娘さんの発案で製作された小ぶりな日傘でも、36本の骨が大変美しく広がっている。傘を張る糊にもたくさんの苦労があった。わらび粉と柿渋を合わせ作ってゆく。「これができず苦労した。山岡さんが作っているところもあまり見れないまま別れてしまったから、必死に思い出しながら試した。どろどろになったり、だまになったり…。ものすごい量を作っては捨てる日々が続いた。」  

 

―多くの時を越えて―

 傘屋の世界にも当然いくつか不文律があったという。浪人たちが内職として傘屋をやっていた時代、すべての工程を教えてはものすごい勢いで傘屋ができ、お互いに仕事で苦しむことになる。そこで弟子といえども教えないことがあったりしたようだ。山岡さんも「俺は全部教えるつもりだ。だが、俺が教えてもらったこと、今言ってることも実は合ってるかは分からんぞ。」と、岡田さんに言ったそうだ。手仕事は目で見て技を盗むことだけでなく自分で作りながら、あぁでもないこうでもないと手探りで発見していく要素が大きいことを教えてくれた。

 生活が変わると使われない道具や習慣というものは必ず出てくる。しかし、岡田さんのように手仕事を残したいと伝える作品には、やはりモノづくりで栄えてきた日本人の心に強く訴えかけるものがある。作って終わりではない、伝えていかなければいけない職人の精神が、まだ足助にはたしかに残っていた。