早川泰生 (早川商会)

*発祥の地、名古屋で受け継ぐ乳母車の技術*

 子供を運ぶための手押し車として、昔から利用されてきた乳母車。その形は時代とともに大きな変化を見せ、今では“ベビーカー”という名前でも広く親しまれている。
最近の構造には“持ち運びに便利でお手頃価格なもの”への追求が深まりつつあるが、一方で当初から変わらぬ伝統のカタチを伝えている場所もある。名古屋市北区、早川商会の早川泰生さんは、籐製乳母車の製造卸販売会社三代目社長として、薄れつつある日本の職人技をしっかりと守り続けている。

 

 

-乳母車の始まり-
 日本の乳母車の歴史は明治中期から始まり、現在100余年が経つ。由来をたどれば福沢諭吉がアメリカから持ち帰ったものが最初である。その欧米の造りを見た鬼頭鍬次郎という方が、名古屋の土地で“もっと日本人の大きさに合ったものを”と籐*を編んで籠を作り、国内に乳母車を普及させたのだ。

 

「昭和20、30年代頃は本当によく売れたんですよ。うちは創業明治末期、問屋業として当初は2系統の乳母車を販売していました。一つは鬼頭流の籐で作られたもの、そしてもう一つは木製のもの。実はこの木製乳母車は、かつて人力車の製造メーカーに勤めていた祖父が発案したもので、木の加工やうるし塗り、様々な部品に人力車の技術が生かされているのが分かります。当時は『塗り箱』という名前で親しまれ、人気も高かったと聞いています。ただあまりにも値が高くはってしまったため、主流は初代の籐製乳母車に。そしてこの技術が今に続いているのです。」

 

 

-守るべき技術-
 車輪、車体、籠の三つから成る乳母車。当初はそれぞれに専門の職人が数多くいて、全て手作業でつくられた。そしてそれらがここ早川商会で一つに組み合わせられていく。
「ただし、今はどの職人さんもご高齢の方ばかりです。車体は発明以来変わらぬものを使っていますが、車輪の技術はもう途絶えてしまい、今はプラスチック製のタイヤを新しく導入しています。従来の鉄のものに比べると、現代の人にとっては軽くて扱いやすくなっておりますが、やはりレトロ感は薄れてしまった気がします。」
 籠に関しても職人の数は激変し、今あるものは“少しでも多くの人が作れるように”と昔の技術を簡易化させたものである。何百人と職人がいた頃は、側面に“松”や“鶴”、家紋などを編みこんでは「おれのこの柄はすごいだろ」と言って皆が競い合っていたという。
「柄をいれる技術は継承されなかったものの、やっぱり籐編みの技術は絶やしてはいけないと思うんです。籐は通常の木材よりも折れにくくて丈夫、20年から30年は十分にもつんですよ。やっぱり良いものは残したいですね。」

 

 現在早川商会では熟練した職人二人に加えて、泰生さんの弟、貴良さんも籠作りを始めたという。
「籐は水に浮かぶくらい軽いものなんですよ。編むときは水にぬらして柔らかくしたものを使用します。日本の障子のような感覚で、乾くと縮んでピンと張るんです。出来上がる籠は軽くて丈夫、だから重宝がられるのかな。せっかく必要としてくれる人の存在がありますし、この伝統はなんとか残したいと思って頑張っています。」と貴良さん。守るべき技術はひとつ、またひとつと継承されている。

 

 

-変わらぬ知恵を現代に-
「今はほとんどのお客さんが全国の保育園です。これを使えば多くて幼児4~5人は入りますよ。」といって泰生さんは籐編みの美しい籠を見せてくれた。
「現代の乳母車とは違って、広いスペースがあるから子供たちは自由に動きまわれるし、深く作られている為こぼれ落ちる心配もないんです。
 でも実は従来の乳母車とは少し違って、これはもともと荷物車と呼ばれていたもの。昔はこの東海三県だと、一家に一台はあったんじゃないのかな。農家の方が畑に行く際、鍬や鎌を運ぶために使っていたもので、その時の“ついでにお孫さんも乗せていこう”という考えが今に生かされているのでしょう。子供を籠に乗せることで、おじいちゃんおばあちゃんは安心して畑仕事をすることができる、それでいて子守もできる。そこから誰でも簡単に子守ができる『乳母車』として世間では親しまれるようになったようです。」
 現在静岡県の保育園や託児所では、この乳母車を園児たちの散歩用としてだけでなく、「避難用車」としても活用されているという。

 

 根強く残る日本の職人技。それらは昔ながらの知恵と新たに広がる活用法で、モノづくりのすばらしさを私たちに思い起こさせてくれる。

 

*籐(とう)…熱帯雨林地域のジャングルに自生するヤシ科の植物。200種以上ある植物の総称。

 

 ※上記の内容はすべて取材当時のものです。